小規模多機能ホームあん

小規模多機能ホームあん の理念
誰もが人生において最後まで主人公である。自分らしい暮らしを継続でき、安心して高齢期を迎えられる理想の地域社会を実現する。

理念に基づくキーワード

「理念」とは「根底にある根本的な考え方」のことですが、掲げるためのものではなく、実践しなければ意味がありません。

この理念を現実のものとするために、どこに焦点を当て、何を観て、何を感じ、何を意識し、何をしないといけないのかを具体的に言葉化した、100個以上の短文からなる『理念に基づくキーワード』という小冊子を作っています。( ※「理念に基づくキーワード」の全文は、こちらをクリックしてご覧になれます。

介護の専門職としての行動の良し悪しを判断する基準を職員一人一人がしっかりと持っていれば、その時どうすれば良いか自分で考えることが出来ます。
あんの理念が職員一人一人の意識の中に浸透し、具体的なイメージをもてる形で定着していくように、毎朝のミーティングでいくつかを読み上げ、夕方の振り返りでは理念と行動を照らし合わせる時間を持っています。

以下は、「理念に基づくキーワード」のいくつかを、解説とともにご紹介します。 (解説 髙島 聡)

“認知症” も “高齢者” も経験していない援助者が、その人の気持ちを理解することなんてできないということを知った上で関わる。

介護の現場での経験重ね、様々な経験を自分なりに積んできました。
しかし、未だ経験していないことがあります。 していないというよりは、できないことがあります。
それは、自身が“認知症” “高齢者”という状況です。

当事業所で職員とともに利用者体験として “認知症” “高齢者” に近い状況を体験してみたりもしましたが、それは、あくまで “体験” であり、実際のものとは違うのです。

当たり前の話ですが、介護職員は誰一人 “認知症” “高齢者” を経験していないのです。
そしてそんな経験をしていない集団が、“認知症” “高齢者” の生活に関わり、時に “理解しよう” としたりするのです。

身近にいる親や、兄弟、夫・妻、彼氏・彼女の気持ちすら、なかなか理解できないのに、少し関わっただけで自分自身が経験したこともない状況に身をおく “認知症” “高齢者” のことを理解しようだなんて…無謀だと思うのです。だからと言って、「解らないから仕方ない。」とは思いません。

感覚を研ぎ澄まし、広い視野を持って、よく観る。
そしてご本人への確認をし、実践し、また悩む。

“解り得ないんだけど、ご本人の想いに近づく努力は怠らない” そんな意識が重要と考えます。

嘘をつかない(テクニックとしての嘘も含む)

一般的に考えれば “嘘”、介護の現場においては “テクニック” …として(ある意味)認められている摩訶不思議な関わりを私は幾度となくみてきました。

例えば、入所施設で「帰りたい」と訴え続ける認知症のある高齢者に対して「もうバス来ないんですよ。明日にしましょう。」 「今日はもう夜遅いし外は雨ですから、また明日に車でお送りしますね。」
認知症のある高齢者に、ここで言う “明日” は来るのでしょうか!?

残念ながら…来ません。
バスも来ません。
朝も来ません。
雨が止む日も来ません。
帰ることのできる “明日” は、いつまで待っても来ません。

こんなのアリですか!?

老人福祉法、介護保険法、社会福祉士および介護福祉士法、更には日本介護福祉士会倫理綱領、その他の書籍も含め、私の知る限り “認知症のある高齢者に嘘をついても良い” とは、どこにも記されていません。

そもそもの話ですが、(認知症のある高齢者にとって)嘘をつかれることによる効果はあるのでしょうか!?
本人の安心に繋がるのでしょうか!?  帰りたいと言う方が言わなくなるのでしょうか!?
もし帰りたいと言わなくなったとしたら、それで良いのでしょうか!?

実際、“嘘(テクニック)” を用いても、特段変わりはありません。
むしろ困惑されたり、誰も信じられなくなったり…と良いことはありません。

私は “嘘(テクニック)” を用いずに、「帰りたい」と話す方に、「帰りたいですよね。でも今帰ってもらえないんです。 申し訳ないのですが…。」と話し、付き合うことの方が大切だと思います。

時間がかかります。
労力が要ります。
そして根気も要ります。
正直、疲れます。
でも、付き合うのです。

それをしたから落ち着くかといえば、そうではありません。 落ち着いてもらおうという私たちの想いが先行すれば、相手に伝わり、落ち着いてはもらえません。
勿論、落ち着いてもらう事が目的なわけでもありません。
どうしたからこうなるといったことはありません。 認知症のある高齢者との関わりに方程式など存在しないのです。

それを知った上で、それでも、誠実に関われるかどうか。そこが私たちに問われているように思います。

正しい生活なんて無い。(個々の生活スタイルがあって当然。良い悪いではない。)

日々の生活における時間の流れ方、過ごし方は、一人ひとり異なります。
規則的に毎朝決まった時間に起きて、決まった時間に寝るという人もいれば、変則的な勤務に就いていて、その日毎に寝起きの時間が異なる人もいます。

これらの生活は前者が正しく、後者が間違っているのでしょうか?

後者は、“不規則な生活” をしているとしても “間違った生活” をしているとは言えないはずです。
でないと、我々変則勤務に就いている介護職員は全員が “間違った生活” を送る人となってしまうのです。

しかしながら、介護の現場においては、規則正しく寝起きをする生活スタイルを “正しい生活” とし、時に、介護サービスを利用している人に “正しい生活” を押し付けようとする風潮を感じます。

とある福祉施設での一場面です。
ある日の夜のことです。
テレビのあるリビングに入居者が3・4人集まり、歌番組を観ていました。
するとそこに介護職員が現れ、「もう夜ですから、そろそろ寝ましょう。」と言い、リビングにいた入居者の内の一人の車椅子を押し、御本人の居室へと行ってしまいました。

残された入居者は、なんとなくそこに居てはいけないような気になり、それぞれの居室に戻り、床につきました。

サラッと見過ごしてしまいそうな…でも非常に不思議なことが現場では起こっているのです。

この場面の中で介護職員は “もう夜ですから” という説明をしています。
一見間違いではないような発言ですが、その説明が必ずしも全員に通用するとは限りません。

一日仕事を気張り、夜だからこそゆっくりテレビを観られるという習慣のある方もいらっしゃるでしょうし、いつもは早く寝るけど今日の番組はおもしろそうだから観ようという方もいらっしゃるかもしれません。
まぁ正直、特別な理由なんて無くても、なんとなく夜更かし…なんて日もあるかもしれません。
様々な方がいます。

一つ言えることは、誰一人間違った生活は送っていないということです。

前述の一場面は寝る時間についてのものを取り上げましたが、それについてだけの話ではありません。
昼間からお酒を飲む人。
寝てばかりの人。
煙草を何本も吸う人。
一日2食しか食べない人。
などなど…

どれも、その人の生活なのです。

人の生活は、意識的にみようとすると難しく思え、結果的に介護職員は介護サービスの利用者に対し、一般的に良しとされる生活の在り方を押し付けてしまっているのかもしれません。

しかし、介護の専門職が焦点を当てるのは、“一般的に良しとされる生活(=正しい生活)”ではなく、“一人ひとりのその時々の想いに合った、その人なりの生活” だと考えます。

利用者を変えるのではなく、周りの環境を整える。

介護の現場では “利用者” に何らかの問題、事故、トラブル等が起こった時、何故か “利用者を変えよう” とする力が働いているように感じます。

その問題、事故、トラブル等というのは、援助者の関わり方や物理的な環境、またその時々の状況に原因があるように思うのですが、多くは “利用者” 自身に原因 があると考えられ、それを改善させることを目指し、 “利用者” 自身の行動や意識を変えようと働きかけるということはないでしょうか。

当然のことながら、そのような働きかけを実践したところで、何の意味もありません。
第一に、“その人らしさ” “個別性” “尊厳” という言葉を多用する介護の専門職が、個人の凹凸を均してよいのでしょうか。
個人のアイデンティティを崩壊させることが、私たちの仕事ではありません。
むしろ、その凹凸の大きさや多様性を認めていくことが重要です。

そして、そもそも、“人” を変えるなんて無理だという話です。
私たちの身近にいる両親、兄弟、夫や妻、彼氏彼女は、自分の思い通りに動いてくれますか!?
動かそうとして…意識を変えさせようとして、うまくいきますか?
結果は当然ながら、うまくいきません。

私たちは、“人(相手)” を変えることなんてできないということを日常の生活の中で知っているのです。
日常の生活では理解できても、それが介護の現場となると、認識が変わってしまうのでしょうか。
非常に不思議なところです。

では、介護の専門職である私たちに何が求められるか!?
それは、“利用者” を変えようとするのではなく、
“利用者” が何に困り、何が恐怖で、何に不安を感じているのか、
よく聴き、よく感じ、よく観て、本人に確認をし、
“利用者” が “その人なりに” “その人にとっての” “その人らしい” 生活を送れるよう、周りの環境を整えていくことです。

勿論、その “利用者” の環境因子に私たち援助者も含まれます。
このことからもわかるように、変わる必要がある “人”は、“利用者” ではなく “援助者” なのです。

無理に話題を作らない。(自然な関わり方をしよう)

介護の職務に携わる皆さんは、介護の現場に足を踏み入れた時、疑問や違和感を抱きませんでしたか!?

私は数多くの疑問、違和感を抱きました。
その中の一つが、介護職員による“人工的な会話”です。

特別興味がある訳でもないのは見え見えなのに、あたかも興味があるかのような話を自らが展開し、相手の話を聞いているようで、結局は自分自身のペース、業務の都合で話を完結させている。
そして、「利用者さんと関わる時間を大切にしています。」なんて平然と言ったりするのです。

話題が豊富で相手を楽しませることが出来るのは、決して悪いことではありません。
しかし、介護の現場に見る、会話を継続させる為に、また利用者に話してもらう為に、質問ばかりしたり、逆に自分の話ばかりをしたりという場面…一般的に考えても、変な話ですし、迷惑なことですが、何故か介護の現場ではまかり通ってしまっているのです。

この状況で、何よりの被害者は利用者です。
無理な会話を続けなければならない…それも生活の場で…。

「コミュニケーションをとる時間」なんていう時間の縛りは、“普通の生活” では考えられません。

朝起きての挨拶に始まり、食事、便所、その他、連続した生活行為の中で発生するコミュニケーションは自然ですが、少なくとも、一方的に介護職員が提供しようとするのはコミュニケーションとは言い難いものです。

介護職員が関わるのは、特別な人ではなく、普通の人です。
介護の専門職として、自然な関わりを心掛けることが大切だと感じます。

必要以上に体に触れない

私たち介護職は、時に親しみを込めて利用者の体に触れることがあります。
いわゆるタッチングという技法です。

タッチングは、α波(リラックスすると出る脳波のこと)が増加する、自律神経の緊張を示す数値が減った、という実験結果もあり、自律神経機能が安定して精神面にリラックス効果があるとされています。

しかし、どの介護者が、いつでも、どこでも、誰にでも行っても良い、というものではありません。

身体的タッチングとそのとらえ方について────

『介護場面では、タッチング(身体接触)が日常的に行われています。こうしたタッチングは
人が母親に抱かれることで安心を保つという「コミュニケーション行動の最も原初的な形態」であり、人が相手と親密になる基本的な欲求の姿勢であるといえます。』

『…注意しなければならないことは、介護職が思いやりや言葉でつたえきれないことをタッチングを通して行ったとしても、受け手によっては不快感や上下関係を感じることになる可能性があります。』

(『介護福祉士初任者のための実践ガイドブック 日本介護福祉士会初任者研修テキスト』/編集 社団法人日本介護福祉士会/発行者 荘村多加志/発行所 中央法規 P64・65引用)

たとえば、ある若い女性は「小栗旬には頭を撫でられてもいいけど、高島聡(私)には触れられたくない!」と思っているとします。しかし、女性の中には「小栗旬なんて嫌だわ。高島ならOKよ!」という女性もいるでしょう。たぶん…。
この場合、小栗旬も高島聡も全ての人へのタッチングが有効とはならないということです。

話を戻します。
信頼関係は双方向の思いがあって成立するものです。介護職が信頼関係を構築できていると思っていても、もしかするとそれは思い込みかもしれません。
もしも、今までの経験と確率だけで信頼関係が構築できていると決めつけてしまうと、親しみを込めようとして利用者の体に触れるということが、相手にとってはどうなのかという考察が抜け落ちるかもしれません。

私たち介護職は経験と確率だけで物事を決め、自分の過去の成功例にとらわれたり、その方法が一辺倒になってはいけません。
介護に、“こうすれば間違いない” といった方法論は存在しません。一人ひとり、一日一日、その時々で、感じ方は異なります。

タッチングに関しては、肌が触れることに対する利用者の想い、その触れる相手との関係性等を考慮し、適時適切に必要な分だけのタッチングを心がける必要があります。
また、タッチングだけに関わらず、その人の微妙な気持ちの変化に意識を向け、一人一人に合った関わり方を模索していくことが重要と考えます。

職員は世話をするのではなく、世話になる。

介護という言葉を耳にすると、介護職員が、高齢者や障害者に何らかの支援を「してあげる」というイメージを持つ人も少なくないのではないでしょうか。
また、いまだに介護に関する書籍などの中で、こういった記述のあるものもあれば、そのように考えて現場に勤務する介護職員も目の当たりにします。

しかし、私自身の介護の現場での経験から、利用者は、そういった介護職員の態度や行動、意識を「良し」とは思っておられないように感じます。
根本的に、人は人の世話になるよりも、人の世話をすることを好みます。
また、現に介護が必要とされる高齢者は、介護が必要となる寸前まで、高齢者として敬われ、世話する立場にいた方々です。

そこを踏まえると、介護が必要となったからといって、単純に世話になろう、なりたいとは思えない心情があると考えられるのではないでしょうか。「人の世話になんか、なりたくない。」という想いをお持ちの方々が、介護を受けざるを得なくなったという事を考えれば、自然な感情だと思います。

介護現場において、利用者は「ありがとう」と言う場面は多く存在しますが、逆に「ありがとう」と言われる場面が少ないように思います。
「ありがとう」何気ない言葉ですが、言うより、言われる立場である方が嬉しいのではないでしょうか。

それならば、介護職員がどのように関われば良いか!?
…実は、そんなに難しいことではありません。一人の高齢者、年長者、目上の人という、極当たり前の感覚を失わず、関わるという事です。

これは、勿論認知症を発症している人にも同じことが言えます。
一般的な高齢者ならば、認知症を発症していようが、身体的な障害や機能の低下があろうが、一人の高齢者として、年相応の敬意を払ってもらいたいものではないでしょうか。

ですから、私たち介護職員は、隣近所に住む高齢者に敬語で話し、関わる姿勢を、利用者にも持たなければなりませんし、実際、介護が必要であることを除いて、「隣近所に住む高齢者」と「利用者」に差は無いということを知り、認識する必要があります。

介護に「こうすれば上手くいく。」といった方法論はない。一回一回新鮮な気持ちで関わる。

介護に関する書籍、研修などで、
「○○という場面では△△という関わり方をしましょう。」
「□□という症状の方には××という対処をしましょう。」
などの記述があったり、講義をされたりということがあります。

それと同時に、発信されるのは、“個別性” “尊厳を護る” “受容” “共感” “傾聴” などなど…。

これって、矛盾していませんか!?

一人ひとり違った個性があり、他人が侵してはいけない領域があり、ありのままを受け入れ、気持ちに寄り添い… なんて並べておきながら、方法論を語ったりしています。

個々によって違いがあるならば、関わり方( “対処” という表現は好ましくないので“関わり方”と記します。)にも違いがあり、“こうすれば、こうなる” といった方程式的ないわゆる方法論など存在しないのではないでしょうか。

そんなものがあるならば、教えてほしいものです。
でも、ありません。
じゃあ、どうするのか!?

一回一回新鮮な気持ちで、誠実に関わっていくほかありません。

時間、労力…手間暇がかかります。
それでもやるのかどうなのか!?
そこを問われているように思います。

“イベント” より “普段の生活の継続” に焦点を当てる

介護施設では、年間の行事計画というものがあり、様々な催しが行われます。

しかし、私たちは介護の専門職です。
イベント会社の社員ではありません。
自宅での今までの生活を継続しようとする中で、年を重ね、病気を患ったり、障害を負い、介護サービスを利用せざるを得なくなった方々に関わるのです。

イベントを一切しないのが良いと言うつもりはありません。
しかしイベントに時間を割き、力を注ぐ前にすべきことがあるのではないでしょうか。

それは、“普段の生活に焦点を当てる” ということです。
介護事業所には認知症のため、普段と違う状況になることで混乱する方もおられます。
如何に、当たり前の日常を、安心して暮らせるか。
これしか無いと思うのです。
そんな当たり前のことを見過ごして、イベントを開催し、「高齢者が喜んでいた。」なんて言って、結局は誰が喜んでいるんだか…と感じることもあります。

そもそも本当に高齢者はイベントを喜んでいるのでしょうか!?
“ 自分の為に一生懸命何かをしようとしてくれた ” という事に喜びを感じているということかもしれませんし、はたまた “折角、若い人らが自分の為にやってくれてるんやから嬉しそうにしとかな気が悪い” というように気を使わせているだけということもあるのではないでしょうか。
もちろん、心から楽しみ、喜んでくださる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、その中にたとえ少数派であったとしてもそうでない方がいらっしゃるなら、見過ごすことは許されないと思うのです。

何にせよ、イベントをして、高齢者が喜んでいるように見えた…良かった…と単純に思うのはあまりに浅はかであり、専門職の実践する介護とはかけ離れたもののように思います。

イベントに走る前に、目の前の高齢者にとっての “普段の生活” とは、どんなことだろうか!?
と考えてみることが重要なのではないでしょうか。

自分がされて嫌なことはしない。

わざわざ取り上げる程のことではないのかもしれません。
“自分がされて嫌なことは、してはいけない” ということは、介護云々以前の、人と人との関わりにおいて気を付けなければならない事項の一つでしょう。

私たちは普段の生活の中では、そこに対するある程度の意識をもっているのかもしれませんが、介護の現場ではどうでしょうか。

私たち介護職は、介護の専門職として介護現場に存在しているのですから、私生活での人との関わり以上に、その点への配慮が求められるのではないでしょうか。

必ずしも自分がされて嫌なことが相手も嫌で、自分がされて嬉しいことが相手も嬉しいと感じるとは限りません。
その点をも踏まえつつ、人と人との関わりにおける言わば “当たり前の配慮を当たり前に実践する意識” が必要と考えます。

援助者は常に何かをしないといけない訳ではない。
何もしないことも選択肢に入れ、時にそれを意識的に選ぶ。

介護職は、介護労働の対価として給料をもらっているという意識からか、介護現場において何かをしないと気が済まないという意識を持っているように感じます。

そもそもの話ですが、介護サービスを利用している方々は、何故、介護施設に来ることになったのでしょうか。
人の世話になんかなりたくないが、身体的な衰えや、障害、病気によって介護を受けざるを得なくなった…という方が多数であることは容易に考えられます。

自身でやりづらくなった事を介助者に頼まざるを得なくなったことはあるにせよ、全ての場面で手伝いが必要な訳ではありませんし、仮に上手くは出来ていなくても自分でする事を良しとされる場合もあれば、自分でできるけど手伝って欲しいと思われることもあるかもしれません。

ということは、状況によっては、介護職に何も手出しされたくない場面や、話しかけられることさえも不要と思っておられる場面もあるのかもしれません。

私たち介護職に求められるのは、勤務時間中、目に見える形での支援をフルに行い、仕事をしたという充実感を味わうといったものではなく、『何かをする』ということと、必要に応じて『何もしない』(引く)ということを心に留め、本人の状況に合わせて後者も意識的に選ぶということではないでしょうか。

高齢者は(身体的な意味で)成長するのではなく、老いる

先ず、誤解があってはならないので述べておきます。
ここでは “成長するのではなく” という表現を用いていますが、人間は精神的に成長を続けることが可能であるということは押さえた上で、身体的には老いていくということに焦点を当て述べたいと思います。

介護現場において、身体機能の向上や維持を意識することに重きを置くことは、当然のこととまでは言えなくとも、ある程度市民権を得た考えとして存在しています。
「歩けなくならないように…」などと言い、自身で歩く機会を作るよう、介護職員は利用者に働きかけたりします。

そもそもの話をします。
ここで「歩けなくならないように…」と言われている方は、いわゆる“高齢者”です。
一般の成人の状態を目指すのは無理がありますし、いくらリハビリと言っても限界というのがあります。
リハビリによって一定の効果が得られる場合もありますが、“老いる” ということは避けては通れない自然の摂理です。私たちには、そのことを共に受け入れていく姿勢が求められるのではないでしょうか。

私は、自身が ”高齢者” を経験したことは、もちろんありません。
ただ、祖父母が老いていく姿は見てきましたし、私以上に祖父母に関わっていた母親から話を聞いていると、本人たちは、自然と老いを受け入れていけるのではなく、様々な葛藤をしながら、どうにかこうにか老いを受け入れていくのです。
正確には受け入れざるを得ない状況だったのかもしれません。

『出来なくなっていく自分をわかりつつ、気持ちの整理がなかなかつかない。』
そんな高齢者に安易に“機能の向上の為に…。”なんて私たちが言って良いのでしょうか。

あえて言うならば、少しでも今の状態を継続できるように、しかし老いる事実を無視はできないので、本人の心情への配慮を最大限しつつ、共に受け入れていくことぐらいしかできません。カッコいいことを言ってますが、実際に受け入れていくのは、当事者である高齢者に他なりません。

私たち援助者に出来ることは大したことではありませんが、一人ひとりの高齢者が “老いていく自分” に折り合いをつけていかれる中での一助になれればと考えます。

笑顔だけを目指す必要はない。

近年、「笑うことは健康に良い。」といった内容の報道も手伝ってか、介護現場において、“笑顔” に焦点を当てた話題や “笑顔” そのものを介護の方針の中心に位置付けている介護関係者が多く存在します。

“笑うこと” は、生活を豊かにするし、先に述べたように健康にも良いのかもしれません。また “笑顔” は、その場を楽しんでいる、その場を認めている一つのバロメーターとして認識される側面もあるのかもしれません。

しかし、私たちの仕事は、介護サービスの利用者を “笑顔” にすることなのでしょうか!?

“笑顔” “笑う” ことは、決してネガティブなものではありませんし、生活を、人生を豊かにしてくれるものであると思います。
その点は押さえた上で…

人の感情には、喜怒哀楽があります。
全てを含めての生活であり、人生です。

私たちは “生活支援” という言葉を多用します。
そうであるならば、様々な感情を認めることが大切です。
時には哀しいこともあるでしょう。
哀しみから目を背け、楽しみに引き込むのではなく、哀しい時に哀しいと思える、勿論楽しい時には楽しいと思える環境こそが、人の生活を本当の意味で豊かにしていくのではないでしょうか。

“笑い” “笑顔” というのは、何となく良い印象があり、ある意味では、利用者の笑顔は介護職の安心に繋がるのかもしれませんが、実はその周囲に本質的な部分が埋もれているのではないかと思うのです。

自分にとって些細なことが相手にとって些細なこととは限らない

これは、介護の場面云々以前に人と人との関わりに置いての話なのかもしれませんが、普段の私たちの生活以上に介護現場では軽視されていることが懸念される事柄と考える為、あえてキーワードとしている文言です。

介護の現場において、本人の人生の中でどれだけ習慣化されたことであったり、大切にしてきたことであっても、介護職にとって些細なことであれば、軽く流されてしまったり、時には悪気もなく見過ごされてしまったりする事柄が多く存在するように感じます。

例えば、個別浴槽に入って戴く場合ですが…
自宅のお風呂に入る場面で、体を入念に洗ってから湯船に浸かる習慣の人がいたとします。この人は恐らく、介護を受けざるを得なくなったとしても今までの習慣を変えることなく、風呂に入ることが出来るでしょう。

では、掛け湯をせずに湯船に浸かって温まってから体を洗うという習慣の人がいたとします。この人が、この習慣を何の遠慮もなく継続できる介護現場(介護事業所)が、どれだけあるでしょうか。
多くの事業所では、「体を洗ってから湯船に浸かりましょう。」と言われるところが多いのではないでしょうか。

事業所の都合によって、同じ湯に数人の方に入ってもらうという事情があるのかもしれません。(この行為は、そもそも、衛生上問題があると思われるのですが) しかし、事業所の都合を優先して、この些細と思われる習慣を侵されることは、本人からすればアイデンティティーの崩壊と言っても過言ではなかったりもします。

私たち介護職は、“個別ケア” “個別化” “一人一人の個性を尊重しましょう” なんて言葉を多用します。これらの言葉は本来、一人一人と関わる時間を作る作らないと言った次元のものを指すものではありません。
そんな言葉面だけにこだわったり、また “利用者を尊重します” なんて、わざとらしい言葉を用いるだけでなく、当たり前の事として一人一人の “些細なこと” がまかり通る介護現場、生活の場を私たち介護職が利用者とともに護っていくことが重要と考えます。

人には触れられたくないことや、話したくないことがある

介護職が、利用者の状態や生活歴、現在置かれている環境等を知ることは重要と考えます。
利用者の事を知らずに土足でその人の人生に踏み込んでいくことが良い訳はなく、十分な情報もなく利用者一人ひとりにあった“介護”を考えることは難しいでしょう。

しかし、全てを知る必要があるのでしょうか。
もしくは、利用者が全てを知ってもらいたいと思っているでしょうか。
自分自身のこととして考えてみる必要があると思います。

私だったら、自分自身の全てを知って欲しいとは思わないし、むしろ他人には知られたくない部分をもっています。
知ってもらってないから、解かってもらえない。
解かってもらえていないから、してもらえないことがあるのかもしれません。
しかし、解かってもらえなかろうが、してもらえなかろうが、「知られたくないこと」もあります。

それらを承知の上で、「知られたくないこと」があるとしたら、それを知る権利が私たち介護職にあるのでしょうか。

私たち介護職は、何もかもを知ろうとしたり、あるいは知りすぎて、超えてはならない個人の領域を侵したりしていることがあるのかもしれません。
秘密を秘密として置いておくスタンスも持ち合わせている介護職が必要なのではないのでしょうか。

相手に伝わるように話し方の工夫をする

普段の会話に置いて、非言語のコミュニケーションも無意識に使っていたりしますが、ここでは、言語的コミュニケーションに焦点を当てて記します。

言葉のやりとりの中で、相手つまり利用者が言葉を理解できているか、できていないのか、といった事を考えることは多くありますが、自分自身の話し方が相手にとって分かり易いかどうかの振り返りは少ないように感じます。

年を重ねられる中で或いは認知症が進行する中で、言葉の理解がし辛くなっていくということがあります。

そういった方に、なんとか理解してもらおうとたくさんの言葉を使って「説明」をしがちですが、ただ自分の言葉を重ね発して相手に理解させようとするのではなく、
自分自身が使っている言葉が相手に理解しやすい言葉なのかどうか
何となく伝えたつもりになっているだけになっていないか。
本当に伝わる言葉で話せているのかを顧みて、必要があれば改善をしていく姿勢が大切と考えます。

丁寧な言葉を用いる。 敬語を用いても親しみを込めることは可能である。

介護現場での言葉づかいについては、様々な研修会やテキスト等で多く記され、重要視されてはいるものの実態としてはまだまだ不十分な事業所が多く存在します。

介護職員の中には「敬語を用いない方が、親しみが湧くので…。」「敬語を使うと利用者さんとの距離ができてしまう。」なんて言う人がいますが、非常にピントのズレた話だと感じます。

こういった考えは私たち介護職が「利用者さんとの関係性を良くしたい。」という気持ちに起因するのではないかと推測しますが、常識的に考えれば普段の生活の中で、親しい近所の人に友だち言葉で話すかと言えば、話さないでしょうし、仮に話している人がいたとすれば、ある意味で非常識な人、礼節を重んじることのできない人ということではないでしょうか。

介護を必要としている高齢者を対象者として考えた場合も同じです。
その方が自分よりも年下の人(介護職員)に馴れ馴れしく話しかけられて良い感情を抱くでしょうか。
「親しみを込めてくれている。」と感じられるでしょうか。

あるいは、ご本人は「気にならないよ」と言われても、その会話をご家族が聞かれたら、どのような気持ちになるでしょうか。

長い人生を生き抜いてきて、歳を重ねた自分の連れ添いや親が、たとえ認知症であったとしても、友だち言葉で馴れ馴れしく話しかけられたり、子供扱いするように話しかけられたりして、快く思う方はいないでしょう。

沖野達也氏・野田洋子氏は書籍(※)の中でこのように言っています。
『一 般に、言葉づかいがなれなれしい職員は、一般的な職員よりも多くのミスや事故を実際に発生させている。しかし、たいていは仲良しゆえに、めったに露呈しない。露見するのは大事に至ってからである。ゆえに意図的になれなれしい言葉づかいをする職員は、事業者にとっても利用者にとっても要注意である。』

あんでは、人としての大人同士の付き合いができる当たり前の関係性を大切にしていきたいと考えています。

※『利用者を不快・不安にさせない!基礎介護技能100のチェックポイント』著者 沖野達也・野田洋子/中央法規出版

経験を積むことで得るものと失うものがあることを知り、意識する。

私は、以前勤めていた特養での経験が8年半程、その後あんを開所し、高齢者介護の世界に身を置いて十数年が経ちます。
この期間において、介護に関する知識や技術は勿論、対人援助の専門職としての視点や求められる倫理観など、上司や同僚、部下、そして介護サービスをご利用の方々から多くの事を学んでまいりました。
まだまだ未熟ではあるものの、この仕事に就いて間もない頃の自分と比較すると、それなりに会得してきたものがあると思います。

しかし、残念ながら失ってしまったものもあるのかもしれません。
誰しも、この業界に足を踏み入れると、この業界特有の違和感をもつと思うのです。
私も例外になく、大きな違和感をもっていました。

特別養護老人ホームに入職して間もない頃のことです。

介護サービスを利用している方を十把一絡げに“利用者”と呼ぶこと。
“徘徊” “異食” “不穏” などの言葉。
同じ時間に同じことを皆がしないといけない施設の流れ。
建物の外に自由に出られない環境。
根拠の無い、煙草の本数制限。
風呂の介助は、脱がせる・着せる ”外介助” と、体を洗う ”中介助”。
施設の中を往来するオムツの台車。
居間のテーブルで巻く、お尻拭き用のタオル。
などなど

挙げればキリがありません。
冷静に考えれば、不自然で、私たちの日常からは、かけ離れたことばかりです。
それが、経験を積む中で不思議とその世界に慣れてしまい、不自然を不自然と感じなくなるのです。

これが“経験を積むことで失うもの”の正体です。

言うまでもありませんが、私たちの仕事はこういった事柄に慣れていくことではありません。
経験を積み、知識や技術、経験と言う絶対値は必要なものです。
しかし、当たり前の日常を大切にする介護の専門職であるのならば、知識や技術の習得と同時に、前述の入職時の違和感を失うことは避けなければなりません。
無意識のうちに失ってしまうのかもしれません。
だからこそ、失うものがあることを認識し、失わないように意識する必要があると思うのです。